医学の歴史(4):「健康」はいつ広まったのか?【いこい通信No.52】
前回、江戸時代に『健康』という言葉が創案されたとお話ししました。しかし当時の『健康』は高度な医学専門用語という位置付けで、蘭学者など一部の者しか知らない言葉でした。
今回は『健康』という言葉と概念が広まった背景についてご紹介したいと思います。
前回のおさらい
江戸時代の一般大衆は「丈夫」や「健やか」といった、どちらかというと主観的な判断で用いられる言葉を使っていました。
しかし、西洋医学は客観性を重視する学問。
客観的に診て、身体内部(臓器、血液の循環、血管の状態、呼吸機能、筋肉の収縮、栄養状態など)すべてが異常ではない状態を指し示す言葉として「丈夫」「健やか」は不適切だったため、蘭学者たちは新語の創案にいそしみました。
江戸時代後半
『健康』という言葉を創案したのは蘭学者の緒方洪庵です。しかし、蘭学者たちの間で『健康』がすんなり受け入れられたわけではありません。
幕末、福沢諭吉が著書の中で『健康』という言葉を使い始めるまで、『健康』は他の蘭学者たちが創った「強壮」「壮健」「康健」「健旺」「健運」などの語のうちの一つに過ぎませんでした。
福沢諭吉とは?
福沢諭吉は幕末から明治期にかけて活躍した蘭学者であり、教育家であり、啓蒙思想家です。明治時代※1、最も発言力をもっていた人物でもあります。
1855年~1858年、幕末。福沢は22歳~25歳の頃に適塾※2で蘭学を学びました。福沢が『健康』に接触したのはこの時期だと考えられています。
その後、福沢はさまざまな著書を通して『健康』という言葉と概念を一般に広めていきました。

福沢の大きな目的は「国家の独立を維持し、諸外国と対等な関係を築くこと」にありました。そのためには国民一人ひとりが自らの権利を尊重し、知識を身につけて、自立して活動することが必要であり、個人のこうした「独立」が積み重なることで日本国の独立が守られると信じていました。
福沢はすべての日本国民が自らの意志で『健康』になることを期待していました。しかし、それが叶わないことを悟ります。
1881年、明治14年。国会の開設が決定したことを機に福沢は主張を変えました。『時事小言』では、国民に代わって学校が国民の身体を鍛える(体力体格を向上させる)方法を提案しています。これが体育の始まりです。
※1 明治時代とは?
日本近代化の時代。少しでも早く西洋列強に並ぶため、富国強兵のスローガンのもと西洋諸国のさまざまな制度を取り入れていた。国策として西洋医学、とりわけドイツ系の軍陣医学をモデルとした医学教育と軍医制度の整備が進められたのもこの時代である。
※2 適塾とは?
緒方洪庵が開いた私塾。医師に限らず多くの俊才が適塾に集まり、あらゆる分野の蘭書を読み競っていた。
参考文献
- 鹿子木敏範(1989)「明治初年のドイツ医学の導入について―ドイツ側新史料による東京大学史補遺―」『東京大学史学誌』7,p.3-20
- 北澤一利(2000)「「健康」の日本史」平凡社新書
- 安田健次郎(2007)「西洋医学の伝来とドイツ医学の選択」『慶應医学』84(2),p.69-84
宮川


