医学の歴史(5):「明治維新」富国強兵の歴史と主流医学の変遷【いこい通信No.53】
こんにちは!宮川です。
前回は『健康』という言葉と概念の広まりをご紹介しました。
今回は福沢諭吉が生きた江戸時代後半~明治時代中期がどんな時代だったのか。また、どのようにして主流医学が移り変わっていったのかをお伝えしたいと思います。
長文になりますが、最後までお付き合いただけますと幸いです。
富国強兵の歴史
まずは、江戸時代後半~明治時代中期までの時代背景をざっくりご紹介します。

1840年、アヘン戦争にて中国(当時は清)がイギリスに敗れたという知らせが日本に届きます。
「大国の中国が負けた…!?」日本に動揺が走ります。
1853年、アメリカの黒船が来航。翌年に日米和親条約が結ばれます。
この頃、日本では洋式砲術(集団戦法)の導入が進められていたのですが、国防体制を強化するため、幕府や各藩でいよいよ導入が本格化していきます。
和式砲術や伝統的な剣弓馬術(個人VS個人の対人戦)は少しずつ隅に追いやられ、それに伴って武士だけでなく農民や庶民も兵として動員されるようになりました。
1858年、日米修好通商条約(不平等条約)が結ばれます。
条約を締結したのは幕府のNo.2井伊直弼の独断によるもので、これをきっかけに尊王攘夷運動(天皇を尊び外国勢力を排除しようとする運動)が盛んになります。
しかし1863年~1864年にかけての下関戦争では、攘夷派の長州藩がアメリカ・イギリス・フランス・オランダの連合艦隊と戦い敗北。また1863年の薩英戦争では、攘夷派の薩摩藩がイギリスと戦い敗北しました。
西洋列強との軍事力の差をまざまざと見せつけられた長州藩と薩摩藩。
両藩は対立関係にありましたが、土佐藩士の坂本龍馬の仲裁のもと、「攘夷(外国勢力の排除)」ではなく「倒幕(江戸幕府を倒して新政府を樹立する)」を目的に薩長同盟を結びます。
薩長同盟が結ばれたことで、倒幕運動に拍車がかかります。土佐藩など幕府に不満を抱く者たちが集まり、軍事力・政治力が拡大しました(のちの新政府軍となる勢力)。
1867年、内乱回避のため大政奉還が行われ、江戸幕府は事実上その幕を閉じます。ですが、旧幕府軍と新政府軍の対立は解消されませんでした。
1868年~1869年、戊辰戦争が勃発。旧幕府軍と新政府軍が各地で戦いました。結果、新政府軍が勝利し、明治新政府が日本全国の支配を固めていきます。
明治維新を契機として、日本は西洋の文化や制度を積極的に取り入れ、近代国家への道を進み始めました。
西洋列強に対抗するため、明治政府は天皇を中心とする中央集権体制を強化します。こうして旧薩摩藩・旧長州藩出身者など一部の政治家に権力が集中し、中央政府の力が強まる一方で、国民の間では政治参加を求める声が高まり、自由民権運動(国民が政治参加を求める運動)が広まります。
1889年、大日本帝国憲法が発布。
1890年には帝国議会(現在の国会にあたる機関)が開設され、日本は立憲君主制国家(天皇をトップに据え憲法に基づき議会で政治を行う国)となります。
主流医学の変遷
江戸時代:主流医学は「漢方医学」
江戸時代中期以降、中国で起こった儒学の復古運動が日本の漢方医たちにも影響を与えました。
復古運動とは、簡単に言えば「原点に戻れ」ということ。儒教の原点は「古典」ですが、医学は実学の側面が強く、帰るべき原点は自ずと「患者」そのものになります。
こうした流れの中で「抽象的な理論よりも実際の診療経験を重んじよう」という気風が生まれました。また、新しい知識や技術を求めて蘭方医学を取り入れる漢方医も現れるようになりました。
明治維新:西洋医学を導入する動き
明治維新の動乱で多くの負傷者が出ました。その多くは銃創で、従来の漢方医では対処ができず、西洋医(西洋医学を学んだ医者)が求められる状況でした。この時、負傷者たちの治療にあたったのはイギリス人医師のウィリス・ウィリアムとジョセフ・シディです。
ウィリスとジョセフの活躍は目覚ましく、当時は蘭方医学に代わってイギリス医学が日本の医学界の中心になったような気配さえあったとされています。
維新後、できるだけ早く日本を西洋列強並みの国にするため、明治新政府は西洋諸国のさまざまな制度を積極的に取り入れようとしていました。鉄道、郵便、港湾、陸軍、海軍…医学もその一つです。
1869年(明治2年)、政府はどの国の西洋医学を採用すべきか検討していました。候補として挙がったのはオランダ医学とイギリス医学です。
しかし、政府は最終的にドイツ医学を採用することに決めます※。
※ なぜ、ドイツ医学を採用したのか?
実は江戸時代、日本に入ってきた蘭書(オランダ語の書籍)のうち、医学書の多くはドイツ書を翻訳したものでした。つまり、蘭学者たちが学んでいたのは「オランダ独自の医学」ではなく、オランダ語を通じて伝わった「ドイツ医学」だったのです。
幕末には多くの蘭学者がその事実を知っており、原本であるドイツ医学の優秀性に気づいていたそうです。
しかし、日本に根づいたオランダ医学と、維新の動乱で負傷した人々を無償で治療し、新政府に多大な貢献をしたイギリス医学。この二大派閥を押しのけドイツ医学を選択するにはそれ相応の理由がなくてはなりませんでした。
ドイツ医学採用に向けて積極的に働いたのは、蘭学者の相良知安と岩佐純でした。
二人は医学校取調御用掛(医学制度の改革や医学校の創設について検討する立場)となり、オランダ医学ではなく、原典であるドイツ医学を手本とすべきだと主張しました。
また、二人の師であるオランダ人医師ボードウィンと、オランダ生まれのアメリカ人宣教師フルベッキが「医学に関して最も優れている国はドイツだ」と証言したこともドイツ医学採用の大きな後押しとなりました。(実際、当時のドイツ医学は基礎医学や細菌学の分野において世界最高水準にありました)
明治維新の混乱を早く乗り越えるため、ドイツ(特にプロイセン)の君主政体を参考にしたいという事情もあり、最終的に政府はドイツ医学(その中でも軍医学校医学)を正式に採用することに決めます。
明治時代:主流医学は「ドイツ医学」へ
漢方医学は1000年以上にわたって、日本の医療を支えてきた伝統医学です。
しかし、伝染病の予防に対して無力なこと、法医学(医学を基礎にして法律的に重要な事実を解明する医学)や軍事医学(軍隊の医療および健康管理)においては西洋医学の方が有用なことから、明治新政府は国家近代化政策の一つとして西洋医学を導入しようとしていました。
漢方医学の排除に向けて、政府はまず西洋医学を教える学校と病院を設けました。
長崎精得館が長崎大学に、東京大が医学校兼病院に、大阪に仮病院および医学校が設立されます。これらの学校・病院では物理学、化学、解剖学、生理学、内科外科などの臨床医学を教える一方、漢方医学は一切教えませんでした。
西洋医学・漢方医学・和方医学を併せた学校や病院も設けませんでした。
1874年、明治7年。政府は「医制」を発布し、医師の開業試験を定めました。
試験科目は基本的に物理学、化学、解剖学、生理学、病理学、薬剤学、内外科の7科目で、すべて西洋医学に基づく内容でした。漢方医として開業する場合でもこの試験に合格しなければなりませんでした。
しかし、漢方医学はもともと師匠について臨床経験を重ねながら医術を身につけていく徒弟制の学問で、師匠の知識の範囲を超えて新しい分野を学ぶことが難しいという弱点を抱えていました。
漢方医たちは試験に合格することができず、国家が認める正式な「医師」にはなれませんでした。
ですがこの当時、漢方医の数は23,015人、西洋医の数は5,274人。試験に通れず漢方医が開業できないとなると、全国が無医村になります。
そこで政府は試験の難易度を引き下げて西洋医を増やす一方で、既存の漢方医および満25歳の助手と見習いは無試験にして既得権を認めました。
その後、事態に一応の見通しが立つと、政府は助手と見習いの既得権を1882年(明治15年)8月限りとし、漢方医の後継者養成を阻みました。
自然消滅の危機を迎えた漢方医学。しかし、漢方薬の使用自体が禁止されたわけではありませんでした。一部の医師や薬剤師によって漢方医学の知識・技術は脈々と受け継がれていきます。
参考文献
- 鹿子木敏範(1989)「明治初年のドイツ医学の導入について―ドイツ側新史料による東京大学史補遺―」『東京大学史学誌』7,p.3-20
- 北澤一利(2000)「「健康」の日本史」平凡社新書
- 清水忠彦(2004)「歴史に学ぶ専門職の栄枯盛衰~変革期の社会を生きる知恵~」『日本看護研究学会雑誌』27(1),p.29-32
- ツムラ(2026)「漢方の歴史」(2026年7月24日取得,https://www.tsumura.co.jp/kampo/history/)
- 三好勝(2026)「明治時代Ⅱ」日本医事史 抄(2026年7月24日取得,https://www.osaka-minami-med.or.jp/ijisi/ijishi12.html)
- 安田健次郎(2007)「西洋医学の伝来とドイツ医学の選択」『慶應医学』84(2),p.69-84
宮川


